高野文子著「奥村さんのお茄子」で気づいた、「群像」の愛おしさ。

高野文子著「奥村さんのお茄子」で気づいた、「群像」の愛おしさ。

2022年10月19日

高野文子さんの作品集「棒がいっぽん」のどこが最高なのかポイントはたくさんあるのだが、
最近、何歳の時に読んでもその時に最適な感動があるということに気づきました。

コミックQUEと出会い、コミック アレ!にたどり着き、マガジンハウスの漫画単行本を買い漁って辿り着いた「棒がいっぽん」。18歳の頃だ。でも未だ読める。まだヒリヒリするし、ほっこりする。

多少の空気の流れに傷ついた若い大人の頃は「美しい街」。
ちょっとした一歩に踏み出したい時は「バスで4時に」、とかとか。
子供が産まれて集団生活を始めた最近は、「私の知ってるあの子のこと」がもう一回ブッ刺さったり。
いつ、どう読んでもずっと何か感じるものがあるすごい本です。

違う、この語りは独りよがりで長い。今日はそういう話ではない。



今日の話は、巻末にある中編「奥村さんのお茄子」のラストシーンを唐突に、思いつきで、絵にしましたという。もっともっと独りよがりでオチがない話です。

主人公の先輩(醤油差し)が、奥村さんが弁当を食べているところを撮影したテープの中身。

先輩の生前のミッションは「奥村さんに茄子を食べさせる」こと。
そのエビデンスとして、奥村さんの食事風景が盗撮され、後輩である主人公(女性に変身した土瓶)が後年撮影テープを分析する。

奥村さんが弁当を食べる食堂の、窓の向こうにぼんやりこっちを見る少年の姿。

その少年は体育の授業中で、見学中の友達が彼を見ている。その友達は体育の先生に睨まれている、その先生は後ろを走る郵便屋さんが見ていて、、、

(未読の人、意味わかんないよね。もう買っちゃいなYO!読んじゃいなYO!)

と、ほんの3秒くらいの世界で、脈絡ある人ない人が同時に世界に存在して、たまたま時が共有され、各々が勝手に何かを思うその距離感が素敵な名シーン。

その、人にフォーカスしたコマ割り・シーンを、マッピングしたという、示唆も発展もない思いつきです。






はい。

うん。示唆も発展もなかった。でも、いいんだ。この作業とても楽しかった。

人生でやり残している3000個くらいの事のうち、1個を達成した。

未読の人も、読みたくなっちゃったかもしれない。

登場人物の中に思わず自分を投影しちゃう人を見出す、いわゆる「群像劇」が好きって人多いと思います。

ガンダム、三国志、蒼天航路、キングダム。
個人的最近だと「左利きのエレン」。「江戸川ハートブレイカーズ」もだよね。

俺も大好きですが、もうちょっとドライなやつ、なんつーか、
最終特に混ざらない、ストーリーに繋がらないのに、たくさんの人が生きている。

「物語にもならない、人たちの営み」好き。

いろんなことに食傷気味な時には、マクロさ、ドライさを感じたい時って、あるんだよなあ。

高野文子作品に登場するような、ただ一コマにちっさくいるだけのちょっとした人に人格が感じられる。
その人柄とか「今何を考えてるんだろう」を感じて、急に愛おしくなる感覚。

ああ、エモい。クソエモい。

映像だと、あざといけど、これもエモいですよね。
人の目の先の人の目の先の人の目の先の、人。高校1年生だった、エモかったなあ。


「群像」っていうと、この作品も好き。何回も見てしまう。でも、目を背けたくもなる。
勝手に、すごい量のコンテクストが心に流れ込んでくる。

Adam Magyar, Stainless – Shinjuku (excerpt) from Adam Magyar on Vimeo.

この文脈でぽそっというと、今回のMANGADORONのミュージックビデオ。
これもこんな、生きる人々の群れを映像にしてみたかった思いがありました。いろんなものへの下手くそオマージュ。
だって、そういう気分の歌なんですもの。この曲は。

好きな表現の話から無理やり自分の作品に落としましたが、独りよがりだしわかりにくいし。ダメですね。
でも、それわかるよ!って人がいたら連絡ください。ぜひ飲みましょう。

以上、エモエモおじさんでした。

ゆうたレッド